日本語教育特区

TVでやってたので、ぐぐったら、出てきた。
 
「日本語力」特区を活用(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20060218us41.htm

東京都世田谷区は一昨年、「日本語教育特区」に認定された。同区は2003年度から「美しい日本語を世田谷の学校から」を合言葉に、区内すべての幼稚園・小中学校で、あいさつや読み聞かせ、スピーチなどを日常的に実践してきた。特区はこの延長線上にある。
実際に始めるのは07年度から。区内の全小中学校で週1―2時間の教科「日本語」を新設し、暗唱や討論、日本文化を体験する授業などを検討している。

私がTVで見たのは、「日本語」の授業風景。
授業内容は、平家物語冒頭の音読+解説。「祇園精舎の…」ってあれね。
 
TVでは、「日本語」教科の目的は、「日本語の響きに親しんで貰う」と紹介していたけど。
ほぼ、私の主張と一緒。
 
普通に会話してる時は、ほぼ意識されていないと思うけど、日本語にも「韻」がある訳で、「信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃあなたの傍がいい」なんて、韻が分かってなければ、作れない文章。
音の問題だから、「韻」を意識するのは、どっちかというと詩とか歌詞だと思うんだけど。
この辺は、如何に表現するかということ以上に、如何に日本語として綺麗かどうか、耳への響きがいい文章か悪い文章か、って勝負だと思うのね。
 
もちろん、こういうBlogの文章もそうで、音読して、なんとなく「おかしい」と感じる文章は、やっぱり日本語としておかしいんだわ。文法的にあってても、どっか、歪んでる。
(私は、文章を書き上げた後、黙読して確認するけど、みんなそうするよね?)
 
で、詩でも歌詞でも文章でも、おかしい、おかしくないの基準は、普段使ってる話し言葉ではなくて、日本語の素養だと思ってる。
変遷する言語の世界で、日本語の素養なんてものを持ち出すと、何それ、って話になるかもしれないけど。
私は、結局、「韻」なんてものは、日頃、繰り返し使っている言葉から、感覚的に学ぶことには限界があると思ってる。日常会話は、あまりにもBrokenだから。
いや、古典読んでも、結局、「感覚」を頭に染みこませることになるんだけどね。
 
まぁ、古典に親しむのは、「教養」という意味でもいいこと。
古典に精通していることが社会的に好まれる、あるいは知的と評価されるのは、御簾を掲げさせた清少納言の時代から、何も変わってない訳で。
 
 
えーと。
このエントリ、昨日からNDSの「もじぴったん」で対戦にハマってるのは、何も関係ないと思いますヨ?